「変わらない」ことで支え合う社会 〜フィリピン滞在から見えた風景〜

名古屋に戻る前夜、私はフィリピンのロビンソンモールを歩いていた。どうしてもハロハロが食べたくて、最上階にあるアイスクリーム店を訪ねた。

「ハロハロはある?」と尋ねると、店員は無言で小さな看板を指差す。そこには**“I am deaf”**と書かれていた。

一瞬、驚いた。しかし、その人は筆記用紙を差し出し、「ここに書いて」と穏やかに促してくれる。私は**“ice cream”**と書き、店員が示すメニューに指差しながら注文を完了させた。

このやり取りに、私は**ある種の“完成された社会”**を見た気がした。

耳が聞こえないという障害を隠すのではなく、明示したうえで働く。そして、非言語での意思疎通がごく自然に行われている。フィリピンでは当たり前のように見えるこの光景が、日本ではまだ特別扱いされる。

フィリピンではさまざまな社会の断片を目にした。ロータリークラブでは、人々が流暢に英語でスピーチをしている。しかし、その英語は国際的な**“標準”とは異なり、まるで別の“言語”**のように響いた。

一方で、スモークアイランドのストリートチルドレンの笑顔と礼儀正しさ。また一方で、毎日9,000人が海外へ労働者として送り出されるこの国では、**“変わらない仕組み”**が社会の均衡を保っているように見える。

たとえば、ストリートチルドレンが“そこにいる”こと自体が、かつてLGBTQの店員の方々が目についたことと同じように、それぞれが社会構造として必要なのではないか。彼らは救うべき対象であると同時に、「そこにいなければならない存在」でもある。

表の舞台では国際英語で演説し、奥では子どもたちが路上で眠る。これらは無関係に見えて、実はすべて関係している。

過去にイエメンでも似たような体験をした。アメリカに留学した教授の講演に毎週参加していたが、一言も理解できなかった。同席していた米国人の先生に聞くと、「私にも何を言っているのか分からない」と笑って答えたのを思い出す。

それは、“世界は英語でつながっている”という幻想が崩れた瞬間だった。

旅は、目に見えるもの以上に、「見えない関係性」を教えてくれる。

そして、フィリピンで私が感じたのは——「変わらない」ことで支え合っている、もうひとつの社会のかたちだった。

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