平等に愛さないという愛

「子どもは平等に愛さなければならない」

そんな言葉に、私はずっと違和感を抱いてきました。

たしかに、親としての理想であることは理解できます。

けれど私は思うのです――“平等に愛する”ことが、かえって子どもを苦しめることもあるのではないかと。

子どもは一人ひとり違います。

泣き方も、黙り方も、助けを求める方法も、それぞれ異なります。

にもかかわらず、親が「同じように愛そう」と努めれば努めるほど、むしろ不公平が生まれてしまうのではないでしょうか。

私は、「平等に愛さないこと」こそが、本当の愛情だと考えています。

たとえば、不登校の子どもが一日中ゲームをしている。

その姿を見て、親の心が穏やかでいられるはずがありません。

「なぜ学校に行けないのか」「なぜゲームばかりしているのか」

親は不安と苛立ちのなかで、何度も自問自答します。

一方で、きちんと学校に通い、家の手伝いもする“手のかからない子”がいたとき、

ついその子には「大丈夫だろう」と、目を向けることを怠ってしまいます。

でも、“問題がない子”が「気にしなくていい子」なわけではないのです。

そう気づいたとき、親は焦って“もう一方の子”に愛情を注ごうとします。

声をかけ、抱きしめ、「ごめんね」と謝る。

その行為自体が悪いわけではありません。

ただ、そこに私は、ひとつの危うさを感じるのです。

もしかしたら、子どもは「親の注目を得る方法」を、

本やネットで得た“ハウツー”として身につけているのかもしれません。

「こうすれば親が喜ぶ」

「こう言えば、ママは泣いてくれる」

「こうやって甘えれば、“いい子”に戻れる」

それが本心からの愛情表現ではなく、親の反応を引き出すための“演技”だったとしたら?

その親子関係は、温かく見えても「行動と期待の交換」でしかなく、信頼とはいえません。

だから私は、表面的な「愛の表現」よりも、「その行動の動機」に目を向けたいのです。

「平等に愛すること」、本当にできると思いますか?

やってみれば分かりますが、きっと無理です。コントロールできるものではありません。

むしろ、「平等に愛さない」ことが、自然で、そして誠実なのではないでしょうか。

「あなたは、あなただから大切」

「でも、ちょっとだけ、平等には愛さない」

それこそが、子どもにとって一番確かな「安心」になる。

私は、そう信じています。

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